二人静
 



2012年4月13日(金)
 大阪守口文化センター エナジーホール

2012年4月15日(日)
東京吉祥寺 前進座劇場

両日、無事幕をおろすことができました。

たくさんのご来場、ご支援に感謝申し上げます。

松本真理子

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◆公演の写真◆

撮影:北澤壯太

 

勝手神社の神事に供える若菜を摘むよう神官に命ぜられた

菜摘女(イサベル・バジョン)が里へ降りていく

春の喜びを

 

菜摘女の元に、不思議な女が現れる


不思議な女は、自らの供養を願い消えていく

神社に戻って神官に事の次第を告げる菜摘女は、突如として物狂おしく乱れる

憑いたるは何者かと問う神官に、鎮魂を願う自分は、源義経の愛妾であり

兄頼朝に逆賊とみなされ逃亡者となった彼に付き従うも吉野山で生き別れた

静御前であると名乗る

舞の名手と謳われた静に舞をひとさし所望する神官に従い

憑依された菜摘女がかつて静が勝手神社に奉納した装束を着けると

静の亡霊も同じ姿で現れる

静御前(松本真理子)が義経に別れをつげられる悲しみを舞う回想シーン

静、愛しい義経と別れ、彼の部下に裏切られ頼朝につかまり

その怒り、苦しみ、悲しみを舞う

二人の静が、義経との悲恋を美しくも憐れに舞う

 

愛しい義経のいる天国に

やがて散る花のように消えていく

 


二人静 ダイジェスト映像

 


◆公演忘備録 パセオ・フラメンコ7月号より◆



未来への架け橋    井口由美子

清々しい余韻が残る。
頼朝に終われる身となった義経と運命を共にしようとしながらも吉野山で生き別れとなり、再び逢うことが叶わないままこの世を去った静御前。
その御霊と吉野の菜摘女とがともに舞うという夢想的な能作品「二人静」がフラメンコの表現を得て、血の通った愛の組曲となった。

菜摘女を演じるイサベル・バジョンに胸がときめく。春の息吹のような初々しさにはっとさせられる。若草色の着物を思わせる柔らかな衣装をしっとりと身にまとっていて、その袖には長襦袢のような白い薄絹が重ねられ、そこからすらりとした脚が見え隠れしているのがなんともなまめかしい。若菜摘をする途中でふと何か見えないものの気配を感じ、睫毛に翳が差す。パントマイムと解っていても守ってあげたくなるような心細げな表情が浮かぶ。
日本文化を理解し、実際にこれほどまでに繊細な表現ができるスペイン女性はそうはいないだろう。慎ましく抑えられた動きはやがて、何かに取り憑かれて目覚めるように躍動感溢れるフラメンコとなっていく。
しなやかなバイラオーラとしての本領が発揮されていくにつれて、観ている側の気持ちも昂揚していく。きめ細やかな心と溌剌とした生命力の狭間にある神秘的な奥行きに惹かれて、静御前は彼女の心の扉をそっと叩いたのではないだろうか。
イサベル・バジョンにはそんな感覚を抱かせてくれる深いアルテがある。

静御前を演じる松本真理子さんの登場で舞台がいっそう華やぐ。小柄な身体にポジティブなパワーが漲っている。そこにはまるで花がほころぶような愛らしさがある。この悲恋の物語が重なり過ぎないのは彼女が内側からグラシアを放っているからに他ならない。
過去の苦悩を回想するように舞う静御前のファルーカが印象に残る。
女の情念が男装することによって抑制されながら、それが却って哀しみを滲ませていく。ここに白拍子の舞の精神が息づいている。

フラメンコギターやカンテ、そして邦楽の笛が融合していくことで幻想的なエネルギーが放出され、静御前の感情の高まりと共に昇華していく。

能のシテ方の静謐な佇まいとのコントラスト鮮やかだった。

辛い境遇を語る静御前と耳を傾ける菜摘女は、共振し合い次第に心を通わせていく。それが流れるようなユニゾンを生み、クライマックスのパレハにつながっていく。
洗練された女らしいラインを際立たせた踊りには、気品を感じる美しさがある。それは女性として人を愛し抜いた歓びに満ちたものにみえる。
女は幸福な記憶を心に留めることでいつでも愛しい人に逢うことができるのだ。そんな希望を、時空を超えて人と分かち合うことができた静御前は、暖かな光に向かって天国へと旅立っていく。
シンプルな舞台にスポットライトを効果的に使ったラストシーンは今も心に残る。

それぞれのヌメロに明確なテーマを持たせ、場面をテンポ良く切り替えていくという舞台構成は、集中力をまったく途切らせることなく最後まで観客を惹き付けていた。
80分という上演時間にすっきりと収めたのも潔くて好感が持てる。
何よりもフラメンコの自由と能の幽玄とのコラボレーションが、国境を越え、生死をも越えて人と人とをつなげ、それがさらに未来にもつながっていく普遍性を秘めているのが頼もしい。

この作品がスペインと日本の素晴らしい架け橋となって再演され続けていくことを願う。

 

「静に・桜・舞う」    國分郁子

異なる伝統芸能をひき合わせひとつにする、これは昨今の文化交流でとりわけ多く行われてきている手法であろう。
しかしここまできっちりとそれぞれの要素を粒だたせて構成できている公演はなかなかない。

重ねた着物で胴体を筒にし、重力、肉体感、感情の喜怒哀楽を引き算しつくした「能」と、個人の心を丸裸にして汗も熱も表現する「フラメンコ」は、地球の反対側で生まれた者同士であり、伝統芸能の質としても真反対である。

題材にした静御前の物語を知らなくても、どのような話なのか手に取るようにわかるのは、バイレ二人の雄弁な描写力あってこそだった。

能の語りで始まるプロローグ、静かなマイムで伝わる的確な客観性、メインとなる二人での舞い、義経との別れ際の苦悩のシーン、そして終盤まで、10場それぞれに様々な曲種をあてこみ、とても自然に場面はつながっていく。
能の要素が多ければ客観性が前にでて、フラメンコの要素が多ければ心理描写が全面にでる、というように、シテの語りや笙(ふえ)と絡む度合いによって物語の視点や距離を内から外へ自在に、そして情緒豊かに展開していく。

カンテとギターの哀愁に引き立たされて、能の特徴が能舞台をみるよりも明確にみえたのには驚いた。砂糖をおいしくするには塩を入れるというが、まさにそれだ。違うもの同士が混在することで魅力を引き出しあっていた。

そして、なんといっても出ずっぱりで踊るイサベル・バジョンの体力には脱帽だった。彼女のターンは古武術のように体幹がしっかりして無駄がない。最後まで途切れることのない鋭利なエネルギーはこの物語に、もがき苦しむ人間の命をふきこむ。いたるところでそのキレを発揮する彼女だったからこそ、今回の「能×フラメンコ」が見事ハマったのではないだろうか。セリフのように入ってくるスペイン語も古典和語も違和感なく重なる。
伝統を合わせただけでなく、各アーティストがもっている個性の相性も際立っていたからこそ成せた物語の説得力。キャスティングもオレ!なのである。
身動きせず声だけを轟かせるシテ方豊嶋は、桜の化身さながらだった。井の頭公園のすぐそばの会場だっただけに、例年より遅咲きの桜が満開にゆれる道すがらの景色が鮮明によみがえってくる。声だけが存在する異様さは、亡霊というまぼろしが空間に浮遊している錯覚を生んだ。

最終場の天国へのエピローグは、包みこむようなやわからかなギターの旋律と、胸を不穏に高揚させる笙(ふえ)の叫びがこれでもかと反響しあい、暴風に吹き荒れる美しい桜吹雪を眺めている気分にさせた。
すでに死んでしまって外部は吹き荒れているが、それでも心の内は穏やかに浄化していく静御前の仏教的情景。
本元能版の二人静も毎年4月公演で行われることが多いとのこと。浄化や成仏に満開の桜をイメージするのは日本人ならではなのだろうか。

この公演をスペインで行ったらどんな反応があるのだろう・・・。
ぜひとも見てみたい。

バックライトの逆光に吸い込まれていった松本の静御前の亡霊が心に焼きついて、帰る道々、街の雑音はどこか遠のき、花見でにぎわう井の頭の街並は知らない国のようだった。
震災の影響で延期となった本公演であるが、穢れを弔うべくして演出したといっても過言ではないほど、今、この時期にやるべくして成された公演だった。
これから千年後も、この国には桜吹雪が舞うのかな、などと未来の桜に思いを馳せる時の旅となった。

 

 

◆4月13日大阪公演 ゲネプロ、楽屋の写真◆

撮影:西岡有紀子

 


◆4月15日東京公演 ゲネプロ、楽屋の写真◆

撮影:北澤壯太

 

 

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主催: スタジオ プランタ・イ・タコン  サイト>>